なんやかん㋳

好きなことの覚書であったり、紹介をしていくつもりです。

ケルトとキリスト教

ファンタジーの源泉?

指輪物語ナルニア国ものがたりハリーポッター。ファンタジーの代表作とも言える名作を数多く生み出したイギリス。この他にも例として挙げきれないほどの作品を輩出し、ファンタジーの国呼ばれている。
イギリスがファンタジーの宝庫であるのは、豊富な伝説や伝承にあると言われている。語り継がれてきた伝説群が、幻想的な世界を描く土壌を作ったのだ。なかでも妖精はイギリスの文学にとって、重要な要素の一つである。妖精の本を開いても真っ先に論じられているのは、やはりイギリスであり、その存在なしには語ることができない。もちろん、他の国々にも伝承は多く残されている。ヨーロッパのみならず、アフリカやアジアなど世界各地で、妖精の姿を追い求めることができるだろう。しかし、それでもイギリスの妖精伝承は群を抜いているように思われる。アンナ・フランクリンが書いた717頁に及ぶ『妖怪百科事典』を見ても、そのあらゆる頁でブリテン諸島に連なる地名を目にすることになる。各地の妖精をまとめていることを考えると、実に眼を見張る数だということが分かる。ビアトリス・フィルポッツは『妖精たちの物語』の中で以下のように述べている。
イギリスの民話で、妖精(faery)という語が示す範囲は非常に広い。おなじみのエルフ、ドラゴン、マーメイドからアザラシに似たセルキー、アイルランドの巨人、フィル・ヴォルグ、スコットランドの糸紡ぎの精ハベロットなど、より神秘的なものにいたるまで、その種類も様々だ。
妖精と言えば今日では多くの人が、手の平サイズの羽のある小人のような姿を思い描くだろうが、妖精とは実に多種多様な姿形大きさをした幻想の生き物なのである。このような妖精イメージ像を広めたのは、シェークスピアであることは周知の事実だ。恋人たちと職人が妖精の魔法に操られるという夢幻劇「真夏の夜の夢」に登場した妖精こそが今日の妖精像を形作ったのである。作中の妖精、パックはもともとは、プーカとして知られるアイルランドの妖精である。シェークスピアがこの作品を書いたのも、妖精の存在に慣れしんでいたからなのだろう。妖精たちの存在は、今も昔も作家たちの創作意欲を書きたてたのである。
イギリス、特にアイルランドでは敬虔なクリスチャンが多いと言われているのに、なぜこのように異教色の強い妖精の伝承が多いのだろうか。キリスト教徒にとって、このように異教色の強い伝承は喜ばしい存在ではないはずである。今日の残るイギリスの豊富な伝承の源泉となったのは、かつてそこに住んでいたと言われるケルト人であると言われている。4世紀にはブリテン諸島の彼らの間にもキリスト教が根付いていたというのに、彼らの持っていた異教性を伝承や風習の中から消すことはできなかったのだろうか。
今回では、一般に「島のケルト」と呼ばれるイギリスのケルトに焦点を当てて概説し、キリスト教との関係を論じていこうと思う。

第一章 ケルト人の社会

ケルトの宗教観を論じていく上で、ケルト人が一体どんな民族であったのかを知ることは、必要な前提条件である。また近年の研究により、それまで「島のケルト」と呼ばれていた地域の人々が本当にケルト人であったのかという問題提起もされている。本章では、ケルトと呼ばれた人々がどのような価値観のもとどのような社会を気付いていたかを概説し、本稿におけるケルトの定義を論じていくつもりである。

(1)ケルトという人々

ケルト人はアルプスの北の広い範囲に居住しており、キリスト教化する以前のヨーロッパに広く分布していた。絶頂期のケルトは、ヨーロッパ各地に侵略あるいは移住によって広がり、今日のヨーロッパ人の原型を作り上げたと言われている。ケルト人に同じ民族であるという自覚があったとは考えにくいといった観点から、ケルト人を「ケルト民族」としてみることには見解が分かれている。ケルトを「民族」としての呼称とすることは、可能なのだろうか。
ケルト人は国家を築くことがなく、部族単位で生活をしていた。そのため、同じ民族であるという自覚は薄かっただろうと考えられている。「島のケルト」の場合、部族の枠を超えてまとまったのは、ローマに侵略される最期の最後で同盟軍を作ったくらいのことだろう。よっぽどのことにならない限りまとまることがなかった彼らの、同じ民族としての意識の弱さが表れている。なまじ同じ価値観を有しているために、利害の関係で部族同士揉めることも多かっただろう。また、ケルト人は自らケルトと自称していたわけではないという。自らをケルトと呼ぶ資料が見つかっておらず、また前述の民族としてのまとまりのなさがケルトの自称に疑問を呼ぶ。各々が、自らをケルト民族であると自負していたならば、ローマの侵略時にもっと早い段階で団結していたのではないだろうか。
こういったケルト人の自負はないというこれまでの考えに、原聖はケルト人が自らをケルトと認識していたのだと主張している。ケルトという言葉が用いられるようになったのは、紀元前五世紀のことだが、ケルト人は紀元前一世紀には自称していたというのである。その根拠としているのが、『ガリア戦記』の第一巻冒頭の文章によるものである。ガリアに住む三部族は、ベルガエ人、アクィタニ人、ケルタエ人(ガリア人)であるが、このケルタエ人が、その土地の言葉で用いられている言葉であるとカエサルは述べている。また、原聖は、「同時代のポンペイオス・トログスは、南ガリアのウォコンティイ族出身であり、近隣の部族に対してケルト人という名称を用いた。五世紀のシドニウス・アポリナリスは、自分の言葉にケルト的ななまりがあると述べている 」として、自らをケルトと認識していたと主張している。確かに原聖の言うように、自覚のあるケルト人もいたのだろう。しかしポンペイオス、シドニウスの両名は、ガリア出身のローマ人でありローマ寄りの立場にあったことを忘れてはならない。ケルトを自認していたのも、それはローマとの関係が特に密であったガリアにおいてのことだろう。異国人が呼ぶケルトの呼称が、民族としてのまとまりを生みだすことはなかった。ケルト人全体がケルトを自認していたとは考えにくい。
逆に考えると、当時のギリシア・ローマといった外の人間にケルト人は「ケルト民族」として認識されていたということである。一言ケルトと言っても、身体的特徴は様々である。アイルランド人、スコットランド人は背が高く金髪で肌が白い、ウェールズは小柄で黒髪、肌はやや浅黒いと言われている。「島のケルト」でさえこんなに違うのだから、大陸のケルトも合わせると、外見だけではケルト人だという見分けがつかなかったのではないかと思うが、共通の文化を持ち、服装も似たようなものだったようだからその心配は杞憂なのだろう。ストラボンはケルト人をヨーロッパの広域に住んでいる重要な住人とみていたようだ。ケルト人と呼ばれた人々が共通の物質文化を持っていたことが、ケルトを民族としてみる根拠となったのだろう。

(2)ブリテン諸島におけるケルト
a) 「島のケルト」の是非

ケルトといえば、アイルランドブリタニアブルターニュと言われるようにブリテン諸島がまずその名が挙がる。ブリテン諸島は「島のケルト」と呼ばれ、ケルトを論じる上で無視することはできない存在なのである。しかし、近年になって「島のケルト」がケルトではないとする見方がでてきている。ブリテン諸島へのケルト人の移民は、近年の研究ではケルト人はアイルランドに移民していなかったのではないかという見解が出てきている。また、ブリテン島の鉄器文明と大陸のケルト鉄器文明が異なっているという指摘もある。これらの論争はまだ決着がついてはおらず、研究者によってケルトの定義も様々だ。本項でもまず、島のケルトについて論じておこうと思う。
考古学の調査結果によると、「島のケルト」と呼ばれる地域へのケルト人の大移動はなかったのではないかという見方が強くなってきている。ケルト人は、イタリアを筆頭にヨーロッパ各地へと移動をしたが、ブリテン諸島への大々的な移動をしていたという可能性は低いのだという。民族的な移動を証明する文献や考古学的証拠は見つかっていない。
では、「島のケルト」は存在しなかったのだろうか。ブリテン諸島への民族としての移動はなかったにせよ、「島のケルト」はケルトではないと断言するのは早計である。
学者によってケルトの定義も様々だが、一般的に以下の様な定義がされている。

言語学による定義
包括的にケルト語と呼ばれる言語を使っていた人々。
② 分布による定義
ヨーロッパ大陸ブリテン諸島アイルランドに住んでいた人々。
③ 文化による定義
包括的に神話や美術等の価値観が似た、もしくは同じ人々。

このようにケルト人とは、人種的な民族を指しているわけではないという考え方が今日では一般的である。「島のケルト」だと言うための方便のようにも思えなくもないが、それだけブリテン諸島ケルト研究の中で重要な位置づけだからなのだろう。フランク・ディレイニーは以下のように述べている。
言語学、民間伝承、そしてわずかだが考古学の分野での証拠。これらを総合すると、アイルランドは「ケルトの(ケルティック)」国と言って間違いない。問題は、いつ、どのようにして、この島が「ケルト化」したかということである。
では、アイルランドは一体どのようにケルト化したのだろうか。民族としての大掛かりな移住がなかったアイルランドケルト化したのは、他地域との交流によるものだろうが、考えられるのは交易あるいは少人数での移動ということになる。
少人数の移動で果たしてアイルランドケルト化するほどの影響を与えることができるのだろうか。一見すると難しいことのように思えるが、キリスト教の宣教師が世界各国へ与えた影響を例にして考えると不可能ではないだろう。原聖は、「文化的共有は人の移動を伴わない文化受容によっても十分達成される」 「数的に優位とは言えない、ないしはごく少数の場合でも、移住者の言語の権威が高ければ、徐々にとってかわっていくということが考えられる」 と主張している。
鶴岡真弓によると、「島のケルト」となる人々がヨーロッパ西端の大西洋沿岸に定住したのは紀元前600年から300年の頃だという。フランク・ディレイニーは、ブリテンへの移動は骨壷埋葬時代の全盛期からで、紀元前8世紀には大規模の移動がはじまっていた指摘しているので、大陸からの移動は紀元前11世紀頃から行われていたのだろう。ケルト人は住んでいる土地が過密状態になると移動を行っており、ブリテン諸島へ新天地を求めた部族もいてもおかしくはない。ディレイニーは「前五世紀前半、フランスとオランダ・ベルギーなどの低地から強大な侵略者(前出のベルガエ族のこと)が大挙して渡来し、自分たちの印を住民の上に刻みつけた」 と述べている。ここでの「大挙」はどれほどの規模のものであったかは分からないが、この時移住した者の多くが「プリタニ」と呼ばれる部族出身だったことが、「ブリテン」という地名につながったという。ブリテン諸島に住むケルトは、ブリトン人と呼ばれることとなる。
この期間に少人数での移民、文化伝播があったということなのだろうか。移動が少人数であろうと、移住先の住民の人数がそれを下回る、あるいは言語の権威が低ければケルト人の文化と言語にとって代わられたとしてもなんら不思議はない。ケルト人の移動は家族単位で行われただろうから、一代かぎりで死に絶えることはなかっただろうし、何代と続いていくうちに現地に影響を与えていった可能性もある。


第二章ケルト人とその信仰の在り方

(1)キリスト教化以前のケルト人と信仰

キリスト教化以前のケルトは、多神教的社会であった。多くの国と同じように、自然の恵みを受けて、自然物もしくはそれを神格化した神を崇拝するアニミズム的社会だったのである。本章では、ケルトの人々の宗教観がどんなものであったか、また信仰のありかたがどうであったのかを論じていく。

a)ケルトの神々

島のケルトの伝承には多くの神々や英雄が登場する。記録によると、碑文から拾えたケルトの神の名は当時三七四あったらしい。あくまで現存している碑文を読み解いたものであるので、実際にはそれ以上の神がいたかもしれない。ケルト人の宗教が多神教であり、神々に多様性があったとはいえ、実に多くの神々がいたことになる。これらの神々の出自は、もともとケルト土着であったものと、ローマなどの他の文化圏から取り入れられたものとに分類することができる。
ケルト化された神には、アポロやメルクリウス、ユピテルなどがその代表的な例として挙げられる。また夫婦神としてローマの男神ケルトの女神と婚姻を結ぶ形での同化も多いようだ。ケルト人達は、多神教らしいおおらかさでもって自分たちにとって好ましい神々を積極的に受け入れていったのである。特にアポロは『アポロ・クノマルグス』、『アポロ・グラヌス』というように特徴や地名を添え名され、各地で信仰されていた。これはアポロの太陽神という属性がケルト人によって支持され、親しまれた結果なのだろう。太陽神は、多くの民族にとって欠かせない存在であり、神々の中でも重要な位置づけにおかれる場合が多い。自然を崇拝するケルトにおいても太陽神の重要性は例外ではない。アイルランドの神話群では、ダーナ神族の英雄である光や太陽を象徴する神ルーが、敵対するフォモール族の族長バロールを倒すことによって新たな時代の幕開けとなる。太陽神は生命を与えるもの、豊穣と治療を司るものとして人々の信仰を集めていた。ルーの他にも太陽神としての属性をもったダーナ神族の女神エリウがいる。ケルトは同じ属性を持つ神であろうと、積極的に取り入れていったのである。司っている物事が戦であれ、豊穣であれ、重要視されている力を持っていることがケルト人にとって重要なのであった。取り入れられた神々は添え名を与えられてそのまま信仰されることもあれば、時には土着の神と同化し、婚姻を結びながらケルトの神となっていったのである。
交流のあった地域の神を取り入れていたのは、ケルト人だけの話ではない。彼らが特別寛容な宗教観を持っていたというわけではなく、他の共同体の神を取り入れるというやり方は全世界で見ることができるからだ。古代ローマ人ケルトの神々を自らの神と混合することや、同一視することがあったようである。ローマはケルトとの交流が盛んであったのであろう。互いに影響を与えあっていたのである。ミランダ・J・グリーンは「神々の姿が広範に作られたのは、ローマ=ケルトの時代であり、これは神々の力を神人同形論的に描くギリシア・ローマの伝統に刺激をうけたものである」 と述べている。
ギリシア神話の神々もまた、他の地域の神々を自らの系統に加えることによって家系図を複雑なものとしている。領土を広げた古代ギリシア人は、その土着の神と自らの神を結婚させることで同化を進めてきた。主神ゼウスとその妻ヘラの婚姻も、征服者と先住民族であったアカイヤ人との和合を表していると言われている。神同士が婚姻を結ぶことで、人間もそれに倣い友好な関係を結ぼうとしていたのだろう。
他民族との接触の中で、ギリシア神話はより複雑に洗礼されていったのである。ケルト人はギリシア人と同じように、傭兵として従軍や交易によって多文化に触れる機会が多かった。そのため、今日に伝えられているような多様な神々が形成されるに至ったのである。ブリタニアケルト人も、活発な貿易を通じて他民族の神を取り入れていったのだろう。

b)自然崇拝がおりなす思想観

ケルト人がアニミズム的社会であったことは先に述べているが、どんな思想観をもっていたのだろうか。ローマ、ギリシアの著述家たちは、北方の「未開人」であるケルト人に少なからずの関心があり、その習慣や宗教について見聞きしたことを書き残している。ポセイドニオスを筆頭にユリウス・カエサルやストラボンは今日のケルト研究に欠かすことのできない膨大な量の情報を提供してくれることとなった。彼らの眼には、ケルトの首狩りや人間の生贄をささげる風習は奇抜で『野蛮な』ものと映ったようだ。カエサルは、それらの風習を著作の中で詳しく描き、出兵の正当性を主張している。では、本当にケルト人は『野蛮』な民族であったのだろうか。
ケルト人は自然を崇拝し、太陽、天、湖、馬といったものを特に神聖視していた。ケルト人は自然の豊かな恵みを享受して生活しており、
全世界で普遍的にみられる太陽、天による信仰、水への信仰からみてもわかるように、ケルトの信仰の在り方はなんら特別なものではない。多神教的宗教観において、これらの自然物を崇拝は当時のギリシア・ローマを筆頭に各地で行われていた。ギリシア・ローマ人が『野蛮』だと考えた生贄の風習も、かつてはこれらの国々でも行われていたものである。豊穣や健康を願い、神に祈りを捧げる上でその対価、つまり生贄を捧げるという発想は普遍的なものなのだろう。生贄はその民族で神聖とされる動物の場合が多いが、場合によっては人間が生贄に捧げられることもある。人柱は、どんな捧げものより効果があると考えられていた。ケルト人が神々に人間を生贄として捧げていたのは、強い信仰心の現れであり、より大きな恩恵を神から受けようとしていたのだろう。
またギリシア人は他民族をバルバロス(わけのわからない言葉を話す者)と呼んでいた。後にこの言葉は野蛮人をさす言葉となっている。つまり、古代のギリシア人は、自国以外の民族を「野蛮」であると考えていたことがわかる。確かに、首狩りや動物だけではなく人間をも生贄を捧げる風習はギリシア・ローマの知識人の目には血なまぐさく映ったことだろう。

c)妖精という存在

イギリスと言えば、『ファンタジーの国』『妖精の国』という風に、幻想的な物事への関心の高い、あるいはそういった文学を数多く輩出してきた国という見方がある。それらの源泉となったのがケルト人だと言われているが、ケルトにとって妖精とは一体どんな存在であったのだろうか。
柳田國男は妖怪たちを神の零落した姿だと考えた。信仰を失い、力を失った神はもはや神ではなくなってしまうのである。妖精にも同じことが言えるだろう。ある農民は妖精のことを「救われぬほど悪くもない堕天使」だと言い、アイルランドの好事家は「異教の神々の零落した姿」だと考えたように、信仰や力を失った神や天使は、神聖性を失ってしまうのである。妖精はかつて神や天使として崇拝をされていた存在が人々に忘れ去られ、小さくなったのだ。
アイルランド神話によると、戦いに敗れたダーナ神族は和平により地下の国が与えられることとなる。伝承によると、今でも彼らはそこに住んでいることになっているが、これも零落した結果なのだろう。アイルランドでは、妖精は丘や洞窟、遺跡跡といったところに好んで現れると信じられている。この考え方に一役買うこととなったのが、このダーナ親族の伝承なのだ。しかし、それだけで妖精とケルトの結びつきを証明することは難しい。妖精の伝承が豊富なのはアイルランドに限った話ではない。妖精が神々の零落した姿なのだとすれば、ケルト人によって当時信仰を集めていた神々が、信仰を失うことによって妖精化したものもあるだろう。先に述べたように、ケルト人の多様な神々が、豊かな妖精伝承を生むこととなったのではないだろうか。各地の風土が個性的な妖精を生みだしたと言われているが、それもその土地で信仰されていた神が元となっているとすれば納得がいく。
井村君江アイルランドにおいて、落ちぶれた神々が怪物やデーモンといった『汚名』をまぬがれることができたのは、キリスト教の布教が「緩やか」に行われたからだと指摘している。キリスト教の布教により異端となった土着の神々は、後に悪魔とみなされることが多いが、妖精という邪悪とまではいかない存在となることができたのは、人々の心にまだ土着の信仰や風習が少なからず残っているからなのかもしれない。科学が発達していない時代、自然現象や人の失踪の理由付けに妖精の存在は必要だった。不幸が起きた時に、しょうがないと諦めたり、希望を持ち続けるには妖精の力が必要だったのだ。その役割を担うことで、妖精は人の心にあり続けたのである。

この他にも新たに「作り出された」妖精がいる可能性が高い。トマス・カイトリーは妖精を、民間のフェアリーと詩人のフェアリーに分けているが、これは前者が伝承の中の妖精であり、後者が創作された妖精のことなのだろう。
鳥山石燕水木しげるを例に挙げよう。日本にはケルトの妖精に負けないくらい多様な妖怪がいるが、それらすべてが昔からいたものではないのである。鳥山石燕は(1712-1788)に活躍した絵師で、妖怪絵巻を描いた人物として有名である。石燕は妖怪絵を描くときに各地の伝説や民間伝承を取材しているが、彼が描いた絵全てが収集された話をもとにして描かれたわけではない。例えば「百々目鬼」は美しい着物を着た女性の手に目が無数にあるおどろおどろしい妖怪絵である。石燕はこの絵に「函関外史云、ある女性生まれて手長くして、つねに人の銭を盗む。忽腕に百鳥の目を生ず。是鳥目の精也。名付けて百々目鬼と云。外史は函関以外の事をしるせる奇書也。一説にどゞめきは京都の地名ともいふ」ともっともらしい注釈をつけているが、この妖怪は彼の創作である。お金が御足ともいうので、スリなどの犯罪も足がついて手に罹るという意味と引っ掛けていたらしい。多田克己は、「「百鬼夜行」シリーズには全部で二百数体ほどの妖怪ほどが紹介されていますが、そのうちの三分の一ほどが石燕によるお遊び」 だと指摘している。洒落好きの石燕は百鬼夜行絵にも漫画的表現を取り入れ、創作の妖怪を多数描いているのである。
このように人は、妖怪を面白がり、漫画のキャラクターのように創作してきているのである。妖精にも同じことが言えるのではないだろうか。妖精たちの一部は、最近になって創造されたものがいてもおかしくはない。そうした妖精たちの存在は、人々が異教的ななにかを求めていたのだということを教えてくれる。最初は慰みや冗談で作りだされたものであっても、それを教えられる側の人間は、それが古くからのものなのかどうか見分けがつきにくい。もっともらしい説明をつけられれば、そういうものなのかと思うことだろう。人々に広まり語り継がれていくことで、後の世では他のものと遜色のない立派な伝承となるのである。


(2) 布教されるキリスト教

キリスト教化された社会との交流によって、島のケルト人もキリスト教と接することとなる。ブリテン諸島に伝えられたキリスト教は、独自の信仰の在り方をはぐくんでいくこととなる。


a) ケルトキリスト教

ケルト共同体によって信仰されたキリスト教は、純粋なキリスト教というにはいささか異なる点もあり、ケルトキリスト教と呼ばれる。記録に残っている最初の布教は432年に、聖パトリックによるものである。アイルランドは聖パトリック、イングランドカンタベリーには聖アウグスティヌスが、それぞれキリスト教を伝道した。パトリックは、キリスト教の三位一体をミツバのクローバーに例えて説いたと言われている。アイルランドのシンボルはシャムロックであるが、それはこのことに由来するものだと思われる。パトリックは土着の信仰を尊重し、その結果ケルトの信仰とキリスト教が融合した形での布教が進められることとなった。このような布教の仕方がとられたのも、彼が幼少期にアイルランドで六年間暮らしていた経験によるものが大きいだろう。パトリックは、その土地の人々にとっての信仰がどんなものであったのかをよく見知っていた。そのためただ土着の信仰を否定するのではなく、融合させる形での布教を行うことができたのだ。ケルト人の価値観や伝承をなぞらえて行われた布教は、人々にとってもわかりやすいものだったに違いない。こうして受け入れられることとなったキリスト教は、またたく間にケルト人の間に広がっていった。
ケルト文様が今日広く知られるようになったのも、聖書の装飾写本によるところが大きい。表紙だけではなく、頁には見事な装飾が入れられた。こうなると本はただの写本ではなく、文字と文様が調和された芸術だと言うことができるだろう。当時すでに衰えつつあったケルトの文化が教会と結びつくことで、新しい芸術を生み出したのである。ケルト十字架と呼ばれる石造りの十字架が作られたのも、ケルトキリスト教が結びついた結果だと言えるだろう。両者の結び付きは、独特の芸術文化を生み出したのである。
ケルトキリスト教の融合によって生み出された、ケルトキリスト教ヴァイキングの襲来によって衰退する9世紀初頭までが黄金時代であった。ヴァイキングはかつて権勢を誇ったアイオナ修道院は、ヴァイキングの襲撃を受け、リンデスファーン修道院と共に、ベネディクト会修道院にとって代わられてしまうこととなる。ケルト修道院の衰えによって、ケルトキリスト教は姿を消すことになるが、「ダロウの書」や「ケルズの書」のような装飾写本は現代まで残っており、私たちをケルト美術の世界へと誘ってくれる。

b) 受けいれられるに至った土壌

ケルト多神教であり、他民族の神であっても受け入れる土壌があった。それはキリスト教に対しても同じで、ケルト人はおおむね寛容であった。布教者の話に耳を傾け、その教えに魅力を感じれば、異国の神を受け入れたのである。伝説の好きなケルト人にとって、宣教師の話は興味深かったことだろう。属王は次々と改宗していき、王に倣って一族も洗礼を受けた。当時のケルトはすでに栄華と権勢を誇った時代は終わりを告げており、ケルトはローマの属州となっていた。ローマ化された属王はローマ文化を積極的に取り入れており、ローマからもたらされたキリスト教は魅力的な存在であったのだろう。
そんな状況に後押しをされながら、布教者は己の仕事を着実にこなしていった。4世紀になるころには、ブリテン諸島での布教は完了していたと言われている。ケルト人の間にキリスト教が普及したのにはいくつかの理由が考えられる。
第一に、当時の布教の仕方がケルトに配慮したものであったことである。アイルランドにおいて布教を行ったのはパトリックであるが、先に述べているように、彼らの布教は土着の信仰に対して考慮をしたものであった。キリスト教の教えを押し付けるのではなく、彼らに理解、共感ができるようにケルト人の価値観にあった形での布教を行ったのである。
第二に、共感できる価値観であったこと。キリスト教一神教だが、聖人や天使への信仰という多神教的な側面がある。キリスト教内部では、聖人に対する敬意は崇敬であって信仰ではないという見方をしているが、それぞれの聖人に御利益を求め巡礼する姿は、多神教的性格をもった信仰と言っても差し支えがない。守護聖人によってもたらされる奇跡は様々であり、人々は御利益を求めて聖人縁の地を巡礼する。聖人やキリストの超人的な偉業のエピソードや、若くして人々に惜しまれながらこの世を去るという生きざまは、ケルト人の心に印象深く残ったのではないだろうか。キリストの生き方は彼らの尊敬する、そしてそうありたいと願う英雄像とまさに一致している。
第三に、ケルトが一つの国家としてまとまっていなかったことである。同盟関係を結ぶことはあっても、一人の王のもと統治された国家を築くことがなかったケルト人は、信仰する神も部族ごとに異なっていた。キリスト教化は部族ごとに行われていったのである。国家の統一を維持するため、キリスト教を迫害、禁止しようとした国々は少なからずある。日本では鎖国の時代にキリスト教を禁止し、ローマ帝国では公認するまでの間強い迫害を行っていた。それらの国々に対して、ケルト人たちは宗教によって国家のまとまりを図る必要がなかった。そのために、改宗がスムーズに進んだのだろう。ケルト人の改宗は部族ごとに行われた。そのことで得られる利権のことを考えた部族の長もいただろう。キリスト教化することでローマとの結びつきを密にし、その地位や財産はより確固なものになった。
以上のことを考えると、キリスト教ケルト人に受け入れられたのは当然のことだと言えるだろう。もちろん全く反発がなかったわけではない。ケルトの祭司であるドルイドの反発は強いものであった。ドルイドは厳しい修行に何年も耐えてようやく一人前になれるというエリートであり、その利権と伝統を守ろうと必死になった。しかしキリスト教化の波を食い止めることはできなかった。やがてキリスト教は土着の信仰と融合しながら、ブリテン島全域に広がっていく。ドルイドの中には、改宗して司祭となった者もいるようである。それまで人々に強い発言力を持っていたドルイドは、キリスト教の司祭にその立場と取って代わられることとなる。

 
第三章ケルトキリスト教のるつぼ

二章では、ケルトの信仰の在り方と、キリスト教を受け入れていった過程を述べた。ケルト人はキリスト教に改宗しつつも、それまでの価値観を完全に捨て去ったわけではない。本章では、ケルトキリスト教についての関係について論じていく。

(1) 伝説と民話から見る

a)収集される民話

今日に残るケルトの伝承や伝説からは、キリスト教の影響がうかがえるものが多い。十字架、司祭、聖人。キリスト教的なモチーフがあちこちにちりばめられ、道徳や勇気、神への祈りといったものが重要視された。まるで、司祭の説教のように人々にあるべき姿を説いている。実際に説教に使われたこともあるのかもしれない。現在残っている伝承には、妖精に化かされるといった困難に直面した場合に十字を切り、神に祈りを捧げることで乗り越えていくものが少なからずある。ドルイドではなく、司祭の手を借りて危機を脱する話なども多い。それもそのはず、これらの伝承を写本したのは司祭たちであった。様々なケルトの伝承が現代に残っているのは、そうした司祭たちのおかげなのである。キリスト教色が強いのも当然のことである。彼らは福音書だけでなく、異教の物語さえも写本していったのである。フランク・ディレイニーは、以下のように述べている。
「書学生はたいてい修道士で、彼らの多くが口承伝承から物語を選んで書き写した。キリスト教徒としての眼が許すかぎりは、原典に忠実だった」
写本を行った司祭たちの中には、その土地の出身者も少なからずいたようである。彼らは、写本をしながらケルトの伝説や英雄物語に懐かしさを感じた者も多いだろう。
ケルトの民話」であっても、その成立時期あるいは採取時期によっては、ケルト色が薄くなってしまう。ローマに征服された後、積極的にローマの文化を取り入れていったため、ケルト文化は著しく衰退している。その後、キリスト教の伝来を通じてケルト修道院独特の文化が花開くが、物語が採取されたのはこれ以降のことなので、キリスト教の影響が色濃く出ているものが多い。民話は語り継がれていくうちに、物語の一部が欠けたり、足されたりすることが日常的である。ケルト文化の衰退後、民話が語られた当時の社会にあった形へと話が作りかえられたものも少なくないだろう。収集された民話が再話されることで、語り手が途絶えることによる焼失を防ぐことができた。しかし、語りという民間伝承の肝を失ったことで伝承としての「死」を迎えたのである。ダグラス・ハイドは、以下のように表現した。
アイルランド語スコットランドゲール語の民間の物語は、生きている文学の形態としては、今日では過去のもとのなりかかっている。それらは、時代精神の足の下、瓦礫のなかで踏みつけられてきており……」(『窓辺にて』)
収集された民話は、文学として人々を楽しませてくれるであろう。人々の生きる知恵であった物語は忘れられていき、記憶の中にとどまることができてもそれは固定され、変化がない。伝承が人々の生活の知恵であったのは、臨機応変に変化を加えていくことができたからである。目まぐるしく変化する社会に対応していたのだ。それが伝承としての「死」を迎えることで、文学としては素晴らしくても生活の知恵や規範になることはできなくなってしまった。

b)教会と妖精

アイルランドの民話「コンラと妖精の少女」は一見ケルト的な物語のように見えるが、実際に読み解いてみるとキリスト教の影響を読み取ることができる。周囲には姿の見えない少女の誘惑を断ち切らせるために、ドルイドが呪文を唱えると、それをあざ笑うかのように少女が言うのである。「ああ、百戦の闘士コーンよ、ドルイドの魔力はちっとも好まれておりません。正しい人々の大勢いる強大な国ではちっとも尊敬されません。神の裁きの日が来れば、偽りの黒い悪魔の口から出たドルイドの呪文など滅びてしまいます」 と。そして王とドルイドの努力も空しく、王の息子は少女と海の彼方へと行ってしまうところでこの物語は終わる。少女は口に出してはいないが、彼女が言っている「神」はキリスト教の神であろう。神の裁きとは最後の審判のことを指しており、異教であるドルイドの呪文、すなわち魔術は滅びるというのだ。王の息子以外には誰も姿を見ることのできない少女は妖精でありながら、ドルイドを非難しているのは非常に興味深い。少女は王の息子コンラを連れて、不平も悲しみもない、喜びにあふれた常世の平原へと去っていく。この常世の平原とは天国なのだろうか。彼女が天使であるならば常世の平原とは天国ということになる。しかしその平原にいるのは神ではなく、国王ボウダグであるという。ここで思い出したいのが、アイルランドの神話にあるティル・ナ・ノーグという常若の国の存在だ。ティル・ナ・ノーグはアイルランドで信じられていた異界の楽土の一つである。そこでは苦痛はなく、老いることがなければ、堕落も醜悪も存在しないという。アイルランドでは遠い異郷の地に楽園を思い描き、憧れを抱いていた。少女の言う常世の平原とは、こういった異界の楽園の一つなのだろう。天国が天界にあると考えられたのに対し、こうした異教の楽園は海の彼方にあると考えられている。少女はやはり妖精であり、コンラを連れていったのは妖精の国なのである。妖精は見目麗しい男女や子供を攫っては、自分たちの国へ連れていくと言われているが、少女の行ったことはまさにそれである。この物語はケルトの流れを汲む民話の中に、キリスト教的価値観が加えられたものなのだろう。ドルイドの敗北はキリスト教の勝利へとすり替えられようとしている。しかし、妖精とコンラの行く先が妖精の国であることがほのめかされており、完全にそれが成功しているわけではない。
この他にも多くの伝承の中で、妖精とキリスト教の入り混じった姿を見ることができる。「パディ・オケリーとイタチ」ではパディ・オケリ-という男が妖精から金貨を盗んだ後、彼らのハーリングの試合に力を貸してやるという話だが、妖精から「正直な方に神の御恵みを」とあいさつで祝福を受けている。「コンラと妖精の少女」でもそうだが、妖精がキリスト教に好意的であることにはいささか戸惑いを覚えるが、それがさしたる問題ではないように物語は進んでいく。「グリッシュ」では、十字を切って聖別することで妖怪はその相手に手出しができなくなるという悪魔的立場である。しかし「コンラと妖精の少女」ではキリスト教に対して異端となるドルイドを非難し、「パディ・オケリーとイタチ」ではパディにキリスト教的な祝福を与えるのである。「コンラと妖精の少女」の妖精はキリスト教寄りであり、「パディ・オケリーとイタチ」の妖精がどのような立場かははっきりしないが少なくともキリスト教に嫌悪感がなく、寛容である。イタチの妖精の「正直な方に神の御恵みを」という言葉は単なるあいさつのようにも見えるが、パディに自分が善良なキリスト教徒の敵ではないと教えている。また、イタチの妖精の母親は己のミサ代のために金貨集めている。「グリッシュ」の妖精であれば、礼拝をしてもらうなど自殺行為になるだろう。堕天使を元とする妖精、異教の神を元とする妖精など、一口で妖精と言っても様々だが、つまり妖精全てが反キリスト教であるとは限らないのである。
この二つの民話は、土着の信仰とキリスト教のどちらもが生活の中に溶け込んでいたからこそ、このような話になったのではないだろうか。異教の名残のある魔術を使い、ケルト人が神聖視した場所を筆頭にどこにでも現れる妖精は、悪さとよいことのどちらもする。おっかないけど、どこか憎めないのである。異教の名残のある彼らが、教会によって悪魔の地位に落とされなかったのは人々が、悪魔と言うほど悪い存在ではないと考えたからなのだろう。その「温情」はケルトの神々のような魔法や不思議な道具を持っている彼らに、親しみがあったのである。「島のケルト」はキリスト教と緩やかに融合していたため、ケルトの思想観が完全に駆逐されたわけではない。聖杯を探し求めるキリスト教的なエピソードがあるアーサー王伝説でさえ、魔法や妖精、ケルト人好みの英雄が数多く登場する。ケルトの息吹は確かに息づいているのである。

(2)異教性の残存

ケルトの人々は敬虔なキリスト教徒であった。しかし教会に通いながらも、人々は異教のフェアリー・ドクターを頼っていたようである。フェアリードクターとは、妖精の声を聞き、姿を見ることができる人物で妖精のいたずらや呪いによって引き起こされた事件を解決していた人のことである。ドクターと呼ばれているように、妖精が関わった病の治療も行ったようだ。彼らは妖精や妖怪を退けるときに、銀や鉄の力を使うだけでなく、聖書を用いることもあったが、妖精の声を聞き、薬草の扱いに秀でていたその存在はどこかドルイドや魔女を彷彿させる。移り住んできたアングロ・サクソンとの混血もすすみ、ケルトという言葉が遠い過去のものとなったが、異教的な信仰は形を変えながらも残ったのである。19世紀後半にアイルランドで起きたブリジット・クリアリー焼殺事件をみても、土着の信仰や伝承が人々に与える影響は大きかったことがうかがえる。

a) 妖精事件

1895年、アイルランドのティペラリー州バリヴァドリーで奇妙な事件が起こる。地元農夫のマイケル・クリアリーが妻ブリジット・クリアリーを殺害したのである。ただそれだけならなんてことはない殺人事件だろうが、彼が妻を死に追いやったのは「取り替え子」によってさらわれた妻を取り戻すためであったという。「取り替え子」とは、アイルランドに伝わる伝承で、幼い子供や女が妖精によって連れさらわれ、代わりに妖精の子どもや木切れが残されるというものである。この妖精のいたずらに遭い、子供や女を取り戻すためには、取り替え子の前で奇妙な振る舞いをしてみせたり、その子を冷酷に扱ったりといくつかの方法がある。その中でも、子供を火の上にかざし「燃えろ、燃えろ、燃えろ、悪魔のものなら燃えてしまえ、けれど神さま聖者さまの、下さりものなら傷つくまい」(ワイド夫人による) という呪文を唱えることが一番確かな方法なのだという。
ブリジット・クリアリー事件では取り替え子に遭ったとい主張したマイケルは、妻を取り戻そうとして執拗な虐待を加えている。ブリジットは夫の責め苦に耐えられず、命を落とすという痛ましい結果を迎えている。マイケルは、妻の亡骸をランプの油で焼いて埋めた。助言をしたのは、地元のフェアリードクターのデニス・がーニーである。周辺の人々は、姿を見なくなったブリジットが、白馬に乗ってキルナグルナーの砦跡にやってくるのだと噂しあった。この事件から考えられることはいくつかある。
第一に、少なくとも19世紀後期の田舎に住む人々が、妖精の存在を信じていたということである。マイケルの妻殺しが妖精となんら関係のない、ドメスティックバイオレンスによるものだったとしても、彼は取り替え子であったと主張することで己の無罪を勝ち取ろうとしている。そんな言い訳を思いつき、実行しようとする程度には「取り替え子」の伝承がティペラリー州に浸透しており、多少なりとも説得力を持っていたのだろう。アイルランドが妖精の国というイメージを、強く世界に印象付けることとなった。
第二に、土着の信仰とキリスト教が混在していたということだ。マイケルは、妻が取り替え子にあった時に教会ではなくフェアリードクターに助けを求めている。司祭を頼れば悪魔払いを受けることができるだろうが、住民が「明らかに妖精の仕業だ」と感じれば、妖精の専門家であるフェアリードクターを頼ったのではないだろうか。司祭は派遣されて村や町にやって来ることが多いので、その地域の伝承や妖精のことを知らないこともあっただろう。そんな司祭を頼るよりは、村の伝承に詳しい専門家に頼んだ方がいいと人々が考えたとしてもなんら不思議なことではない。日本人が正月に神社に行き、盆には寺に行くように、目的によって教会とフェアリードクターを使い分けるのである。土着の信仰とキリスト教との習合である。
それが可能となったのは、キリスト教布教時に土着の信仰と緩やかに融合していたからではないだろうか。ケルト修道院の衰退した後も、ケルト人の持っていた価値観が人々の中に残っていたのだろう。アイルランドには信仰心の篤い人々だが、妖精などの民間伝承が根強く残った地域でもある。キリスト教が浸透した時代になると、教会と異教の思想観は競合するのではなく、共存という形をとっているように見える。キリスト教の教えが人々の生活の中に根付いたことで、躍起になって異教のなごりを排除する必要性がなくなったからでもあるだろう。

b)ケルト人の流れを汲むという自覚

ケルトの遺産は、民族独立運動の道具として使われてきた経歴がある。積極的に民話が採取されたのも、民族のアイデンティティーをそこに求めたからである。国としてのまとまりや、愛国心を呼び起こさせるのにケルトは格好の材料であった。ドイツでグリム兄弟による民話の採取が喜ばれたのと同じように。採取されたどこか懐かしい物語群は、人々に民族の誇りと愛着を呼び起こさせたことだろう。かつて統一した国を持たず衰退していったケルトがそうであったように、人々の執着は国ではなく土地へと向けられていた。そんな人々をまとめるために「ケルト民族」というつながりが用いられることとなったのだ。W.B.イエイツを筆頭に集められた物語は、民族のアイデンティティー確立を促した。人々にケルトの流れを汲むと強く意識させようとしたのである。知識人たちは口々に、民族への回帰を叫んだ。自国の神話や民間伝承を求める心は、自らのルーツを探そうという人間の当然の欲求である。ソンダース・ルイスは故郷ウェールズの文化が古代ケルト語の内にあると考え、ケルト語文化への復帰を強く訴えかけた。自らのルーツを探り、その文化を再興することが自分たちの「国」の発展につながると信じたのである。
しかしここで注意したいのが、原聖の以下の指摘である。
ケルト学研究の発展によって古代ケルトのイメージが次々と更新され、より鮮明で具体的なものとなりつつあるが、それを背景にした現代のケルト文化は、過去のケルトとはまったく別のものだと認識しておく必要がある」
ケルトの血を引く」人達ですら、ケルトを正しく理解しているとは言い難い。スチュアート・ピゴットは、「高貴なる野蛮人」の言葉を用いて好意的な感情は時として願望となり、その実像を捻じ曲げることを指摘している。ケルト史家チャドウィックは、古典文献をケルト人に対しての感情と書かれた年代の二つの観点から「ポセイドニオス系」と「アレクサンドリア系」に分類した。スチュアートは、ケルトと直接接触があり、写実的で遠慮のない批判をした前者に対し、後者はケルト社会から時間的空間的に隔てられていることから、しばしば理想化しがちな面があると言っている。
前者のグループにも、ストア哲学の理想主義と「高貴なる野蛮人」の神話によって多少歪められているものが含まれるが、おおむねケルトの風習や風俗を伝える直接情報から取り出されている。それに対して後者は理想主義が高じた挙句、ドルイドの中に「未開人の哲学者」というロマンティックなイメージを作り出し、「知識としてのドルイド」は「願望としてのドルイド」へとすり変わっていったのである。
 現代の我々がケルトに注ぐまなざしにも同じことが言える。ケルトを理想化し、もしくは理想化したテキストを読み、知らず知らずのうちに自分にとって都合のいいケルトを作り出しているのである。今日にケルト的だと呼ばれている物の多くが、近代に作られたケルト像を受け継いだものである。近代の文芸復興によって生み出されたケルトのイメージは彼らを幻想的な民族として、神聖化している面がある。イエイツは「ケルトの薄明」の中で、以下の様な指摘をしている。
「そうした詩には、葦間を吹く風の様な生の音楽があり、ケルトの悲しみの内なる声というか。いままで人々が見たこともない無限の者へのケルトへの憧れ、といったものが歌われているようだった」(「幻を見る人」)
イエイツは、自ら民間伝承の採取作業に携わり、自らの体験を通して「ケルトの薄明」を執筆した。本文中の聞き手は彼自身であり、述べられている意見もイエイツ自信の考えである。伝承を語り部から聞いた者としての率直な感想が、そこにはある。
ケルト民族はやさしく夢をおのれにあてがい、薄明に妖精の歌を聞きつつ、魂や、しんでしまったものたちを、しみじみと考える。ここにはケルト民族がいる。ただ夢見ているケルト民族ではあるが……」
近年、ケルト文化の復興しようとする動きがある。白い衣に身を包んだ「ドルイド」がウェールズで集会を行い、ケルト好きの音楽家は、軽快なケルト音楽を奏でる。日本でもアイリッシュ音楽を自負するメンバーによって出されたCDが、「ケルト的だ」と好評だ。こうした活動で表現されるのは、「我々が考えているケルト像」に即したものであり、真の意味でのケルトの復興につながるのかと疑問の声がある。しかし、だからといってこうした運動が無意味というのは早計である。ケルトが時代によってローマやキリスト教、ゲルマンの影響を受けていったように、現代のケルトも現代人によるエッセンスを加えるのは、当然の成り行きだろう。民話が語り継がれていくうちに物語の一部が省略され、または尾びれがつくように、「生もの」なのである。その時々の時代にあった形で調理され、人々に供せられる。時代の求めに応じていくことができなければ、忘れられ、廃れるのだ。人々がケルトと向き合い続ける限り、活動は一歩ずつ前進していくだろう。

c)人々の願い

妖精との付き合いや迷信の多い民間信仰が残り続けたのは、それが人々に必要とされたからである。キリスト教としては、異教の名残などはあまり歓迎できる存在ではないはずである。本来ならば否定したい存在だろう。しかし、それでもなお豊かな伝承や民間信仰があるのは、そういった異教的な何かを求める心が人々にあったからだろう。キリスト教の教えは人々にどう生きるべきかの規範となり、司祭は冠婚葬祭などの催事を担う村の重要な人物となっている。キリスト教は人々の生活の重要な位置を占めているのである。そんな中でも、人々はケルトから受け継いだ異教的なものを捨て去ることはなかった。ポール・セビヨは小妖精を、キリスト教到来以前の民族とその伝説を今に伝えるものであるとし、彼の息子ポールイヴ・セビヨは古代ケルト人の巫女の変形だと考えた。古の神々や神官は追い払われ、地下や海の果ての国へと追いやられていった。生贄や捧げものを得ることもなくなり、その代わりに農作物や家畜を荒らすのである。気が向けば人間を手伝いもする。妖精となった彼らは隙を見ては人間にちょっかいをだし、一風変わった隣人として人々に親しまれている。妖精の名前にジャックやジョンといった親しみやすい愛称を、古くから土地に住んでいる妖精につけることもある。イギリス人は、しばしば妖精たちのことを「気のいい隣人」という呼び方をする。これは、「ピクシ―」だと「ボギー」だのという風に、不躾に種族名を言って相手を怒らせてしまうのを恐れているためであり、敬愛を込めて呼んでいるのでもあるらしい。現在のイギリス人がどこまで妖精の存在を信じているかはわからないが、長い歴史の中で培ってきた付き合い方なのだろう。妖精に対して恐れを抱きつつも、愛着も持っているのである。
科学が発達し、様々な自然現象に理論的な説明ができるようになった。それまで神や妖精の領域だった物事も次々と解明されていった現代。異教の聖地にも検査が入り、地図上に明記され、人々を寄せ付けなかった遠い昔のような神聖さは感じられない。場合によっては、ショッピングモールや駐車場を建設するために取り壊されてしまった場所もある。ケルト人たちが慣れ親しんできた不思議や神聖なものは白日の下に曝されることとなった。イエイツは時代精神ケルト民族を変えてしまうことはないだろうと考えていたが、今日、妖精の存在を頭から信じている人はもはやそう多くはいないだろう。
しかし、それでも人々は心のどこかで不思議を求め、古の時代に思いをはせる。作家に紡ぎだされるファンタジーの物語は現代の伝説や伝承だ。ピゴットは以下のように指摘している。
より洗礼された社会の人々が、自分たちよりも幻視的な人々を理想化するという現象がある。空論を含む理想化という現象は、文明化した共同体で周期的に発生するのだが、その根元には、潜在的に自分たちの時代の社会制度が不十分だと思うやましさばかりでなく、今とは異なる時間(過去の「黄金時代」)や、異なる場所(「高貴なる野蛮人」のいるまだ知られていない場所)に、より単純で快適な社会システムがあるとする考え方である」
人は自分達にはないあるいは失ってしまったものを持っている相手を羨むのだ。ケルトが世界各国で一時期ブームを読んだのは、「ケルト的」とされるものの中にエキゾチックなものを感じたからではないだろうか。どこか懐かしいものを感じた人もいるだろう。自分たちにはない、あるいは失ってしまった世界観に憧れを抱きながら、神話や民間伝承を読み、はるか遠い時代に思いをはせるのである。もちろん人々が「高貴なる野蛮人」に向ける眼差しはケルトにだけでない。ケルトはその中の一つにすぎないが、その土地の人々にとっては過去からの大事な遺産だろう。

 

おわりに

ケルトという言葉に、現代の我々は幻想的なイメージを持ち、そこに癒しを求める。魔術と妖精、英雄を愛した民族として、人々はケルト人を幻想的な民族、高貴な野蛮人だと考えた。1980年代の成果的なケルトブーム以降、ケルトはヨーロッパだけでなく、日本でもその知名度を上げることとなった。不思議な魅力で人々を引き付けている。本稿では、ケルトキリスト教について論じたが、両者の関係は単純な対立関係では測れない。
ケルトキリスト教は、それぞれ土着の信仰と、新しく布教していく信仰とで対立していくものだと私は考えていた。だが、キリスト教と異教だからといって、単純に敵対するだけではないのである。両者は相手を非難するだけではなく、相手の思想観や文化を取り入れている。合理的と言えるやり方で、キリスト教ケルトの思想観を取り入れた布教を行った。ケルトの文化は、ローマの征服、キリスト教の布教、ゲルマン人の侵攻によって衰退していったが、その思想観はそれぞれの思想観と結びつきながら生き延びていった。淘汰されなかったのは、そうした思想観が、人々の生活と結びついていたからだろう。生活の中の迷信や、民間伝承の中に、そうしたなごりを見つけることができる。今日のケルトと全盛期のケルトでは、異なる点が多いだろう。しかし時代の流れの中でも、ケルトの自然や妖精への接し方は形を変えながらも受け継がれていっているのだ。それらの民間伝承が正しいかどうかはともかく、先祖から受け継いだ共同体の知恵として共同体に蓄積されているのである。イエイツが言うように、ケルト民族が時代精神に左右されることがない、なんてことはないだろう。取り替え子のような民間伝承に対する実践をする人は、もはやいないだろう。時代とともに、今信じられている民間伝承もやがては迷信だと人々に言われるようになるかもしれない。だが、民間伝承はそういった妖精の対処だけではなく、人々に勇気や正直、勤労などの生き方を教えてくれている。昔のように、人から人に語り継がれていくことは減るだろうが、書籍やインターネットの力を借りて、人々に語り継がれていくだろう。

科学の発展によって、私たちは非現実だと思えることは「おとぎ話」だと切り捨てていった。だが、振り子が片方に振れれば、同じくらいの力でもって戻って来るように、そう簡単になくなるものではない。科学的な者が発達すればするほど、人々の幻想を求める心は大きくなっているのではないだろうか。現代に即した形で姿を変えながらも、社会の中で息づいていくはずだ。